CANTO!
1st アルバム
「Česko」ETOPAR-C-0006 税込価格 ¥2,500-
2017年6月25日より全国販売開始!
タワーレコード、HMV、ディスクユニオン、AMAZON
を始め全国のCDショップ等で予約、注文が可能になります
その他ETHIOPIA RECORDSから中西文彦ソロギター「depart on guitar 」
「XANGOS live@SAD CAFE」「 XANGOS RODA」がメタカンパニーから
順次発売されます。乞うご期待!
『Česko』 黄金町の大岡川沿いにあるバーで演奏した後に、Camaraという名の女に話しかけられた。真赤な髪、色素の薄い肌。父親がチェコ人というが、その実はどうだろうか。小柄で髪と肌以外はどちらかというと東洋的な外見だし、Camaraという名前からして、どうもチェコ人らしくない。だが、そんなことはどうでもいい。女には魅力があった。嘘なら嘘の、偽物なら偽物なりの美しさがあったのだ。ベヘロフカを乾杯した。 窓から大岡川を見下ろして、女は言う、ヴルタヴァ川みたい。懐かしい、プラハにも黄金街というところがあるのよ。 ―黄金小路(Zlata ulicka※二つ目のaにアクセント、cに谷型アクセント)のことだろうか。プラハ城内の細い路地で、今では土産品屋が並ぶ体だが、往時には錬金術師たちが住み着いていたという一角。この通りの中ほどにNo.22と書かれた鮮やかなブルーの壁の家がある。フランツ・カフカの仕事部屋だ(彼もまた錬金術師といえるだろう)。1916年からの半年間、つまりはちょうど一世紀前に、カフカは、夜になるとあの青い家へと通い執筆に勤しんでいたのだ― そんなことをとりとめなく、川を眺めながら、黄金小路のことかい、と訊くと、そうそう、と相槌を打つ。話を合わせただけかもしれないが、女もまたカフカを好んでいたようだ。そう、あなたは断食芸人なのよ。と言って俺の耳をつまんだ。カフカみたい。 そのまま近くの安ホテルに流れた。有線からアルゼンチン・タンゴが流れていたので『Last Tango In Paris』のマーロン・ブランドよろしくタンゴを踊る真似をしても、ツイストみたいになるのを見て、大笑いされた。 キスを交わし、小ぶりだが形の良い乳房の先端に触れると、知らない言葉(チェコ語だろうか)を言って身を反らした。ベッドの中で虫のように絡み合った。 。情事の後、Camaraは言う。チェコへ行きたい。父親に会いたいから、連れて行ってほしい、と涙を流した。 今は無理だ、金もないし、来月にはあの川沿いのバーでのライヴもある。でもいつか、お父さんを捜しに、カフカの家も見に行こう、などとデマカセだと女も判ってたろうに、小さく頷いて、黄金の約束[ゴールデンプロミス]を交わした。メッキに過ぎない黄金の、束の間の幸せに浸りながらふたり眠りに落ちた… …目覚めたら、もう女はいない。財布やギャラやスコアの入った鞄も失くなっていた。笑えるほどお定まりのパターン。さいわいギターは置いてあった。 まあいい、どうせ僅かな金しか入っていない、あれじゃチェコへの旅費の足しにもなるまいが。 未練はなかった、むしろ安堵したところすらある。 だが「チェコへ行こう」という約束が頭から離れない。デマカセでもメッキでも約束は約束だ。 チェコへ。 そうだ、チェコへ行こう。
1 camara チェコ語での案内放送に、マーク・リボーを想わせる妖しいギターと絡みつくベース。 裏通りにゆっくりと車を進めて、誰かを捜しているような助走から、タイトなリズムが刻まれ、次第にアクセルが踏まれ、テンポを挙げ、スカのようなビートで車は疾走する― 19世紀末プラハのような、ニューヨークロフトのような、スウィンギンロンドンのような、戦後間もないヨコハマのような、既視感のある断片のモンタージュは、近未来の(というのはたぶん現代のことだが)暗黒映画[フィルム・ノアール]のテーマになった。
2 baião×倍音 大澤氏の存在感ある肉体そのものが楽器として響く、肉塊の共鳴曲とでも言えるだろうか。 ホーミーと呼ばれる喉歌は、声帯や口を通じてだけではなく、甲高い響鳴が口蓋から頭蓋から上半身を震わせ、ベースの弓の唸りは腹から下半身へと伝わる。 全身の震えにブラジル北東部のbaiãoのリズムが動力となり、肉弾列車へと変わる。 日本~モンゴル~チェコ~ブラジル。 表面を辿るなら、地理的にも文化的にも、あまりにかけ離れているように感じるが、生の肉体を倍音で、地球という体に響かせれば意外に近しく伝わるだろう。 “Brake on thorough to the other side” 球体を反対側まで突き抜ければいい。体当りで、垂直に、倍音でレールを軋ませるギューギュー列車に乗って。
3 tango lennon 鍵のかかった重厚な扉には、小さな覗き窓がついている。見れば、一組の正装した男女が、ぴったりと身体を寄せて踊っている。キリストのように髭の生えたジョン・レノンと魔女のように長い黒髪のオノ・ヨーコではないか。最も有名なカップルの二人はアキ・カウリスマキの映画の登場人物たちのように全く表情を表さないで、ひたすらステップを踏んでいる…そんな奇妙な場面が夢想される。 スペイン語で歌詞をつけ、アダ・ファルコンあたりが歌ってもおかしくないような、アルゼンチンタンゴの正統的な曲調であるのに、ドラムスが入っている。エイトビートのタンゴなんて聞いたことがない。だのにこんなに自然にはまるとは。 悪魔の踊りタンゴはロックンロールの伯父だったんだ。 中西氏の作曲家としてのセンスが光る一曲
4 fela christmas アルペジオの可愛い前奏はカリンバで奏でる賛美歌のようだ。リムショットに跳ね上がるリンガラのようなギター。小さな獣たちのお祭りだ。 だが見よ、地平の向こうに土煙が上がっている。地響くベース、騎馬隊が駆けてくるドラムの連打、火焔を上げて地を焼き払うギター。 フェラ・クティの魂を乗せた橇がいま滑り来る。主は来ませり。主は来ませり。恵みの神か、滅びの魔か。 漆黒のサンタ・クティ。灼熱のクリスマス。
5 石と星 石は星を見上げて憧れる 星は石を照らして懐しむ ここから星は石のようで 星から地球は石に見える ちっぽけな石の祈る声は 地球という星の歌となる 小さなものと大きなもの はるかなふたりのお伽噺 二本のギターを重ねた美しい間奏曲[インテルメッツィオ]。 カルロス・アギーレに代表されるアルゼンチンの新しいフォルクローレのようでもあり、日本の民謡のようでもある。
6 dança da lagarta ギューギュー氏の弓がおおらかなメロディを奏でる 芋虫は蠢き、もぞもぞ歩む。 風に鳴る鈴蘭のごとくシンバルが散り、タムに彩られる。弾けるベースのウォーキング。盲の芋虫は進み進み、葉の端から転がり落ちる、かと思いきや、ギターの旋風で、空に舞い上がる芋虫。踊る、縦横無尽に、手足や羽根のあるものにはできまい。芋虫でしかできない自由なダンス。不恰好な美しさ。哀しみのある可笑しさ。
7 atom dance 無機的なギターリフ、シンバルやシズルの金属音。パーカッシブなベース。 廃棄物の山。焼却できない、火葬されない、「燃えないゴミ」たちが、踊っている。 折れたビニール傘、盗難された自転車、フロンの抜けた冷蔵庫、断線したケーブル、壊れたトースター、古い携帯電話、使い古され、壊れ、廃棄されたものたちが、揺さぶられ、さらに分解される。鉄板、プラスチック、バネ、ネジ、ガラス、さらに振動し、潰れ、砕け、粉々に、分かれ、原子まで。叩かれ回転し、波動し、さらにさらに踊る。
8 tom tom 淫靡なギターのリフ、粘っこいベース、乾いたスネアの快音に熱くなる。エロティクな躍動に下半身が反応しない者は、音楽的不能[インポテンツ]を心配したほうがいいだろう。 荒井のドラムスが、青ヶ島の太鼓に変わりゆく、叩き出す拍子ひとつひとつにに数百年間継がれている時が込められ、刻まれる。 ギューギューのベースは叫び声に変わり、中西のギターは、血を飛沫あげる。 情動の舞踊、官能の歌謡。
9 aum 旅の終わり近く、川のほとりで、三人の男たちは、静かに語りはじめる。まったく言葉を用いずに。 気負いはいらない。ずっと旅をしてきた道連れなのだ。何気無く、語るというより、呼吸するように。言葉になる前の思いを、ゆっくり吐き出すように。静かに吸い込むように。注意深く耳を傾ける。耳を澄ませて、相手の気を捉える。気遣いをする。優しさ。 深く、優しく受けとる心は、また相手の深いところまで届き、心の内奥にある器を鳴らす。応える言葉もまた深いところから引き出される、心が溢れだす。大きくうねり、ひとつとなる。「すべてがいっしょになったのが現象の流れ、生命の音楽であった。すべてを全体を統一を聞くと、千の声の大きな歌はただ一つのことば、すなわちオーム、すなわち完成から成り立っていた(ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』)」
ほとんど即興で、ワンテイクで録ったとは奇跡的にすら思える、ラテンであるかロックであるかジャズであるか、などジャンルという籠に入れるほどバカらしいことはない。川の水のように零れるだろう。 これは歌だ。言葉はなくとも、言葉の霊のが溢れてる。CANTO!